津軽に咲いた奇跡の花

死ぬ前にひとつ生きた証を残しておきます。

          

津軽に咲いた奇跡の花

 

K.T

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めったに雪は降らないが底冷えする。5月の半ばまでも暖房器具が手放すことができない。どことなく京都に似ているかもしれない。

 

夏はやたらに、暑く、冬は寒くて布団が恋しくなる。そんな町に僕は今から60年前に生まれた。家はとても貧しく、家ば当時でも珍しく茅ぶきの屋根のボロ家だ。主な現金収入は農業だった。

 

一家総出で農繁期バタバタだった。僕の父親は地方公務員ではあったが身体が弱くて県庁へ朝早くに家を出ると帰りは夜の7時を回っていた。彼が結核にかかり入院している頃に僕は母親の実家に預けられて、近所の駄菓子屋に入り浸りおやつを贅沢に、買ってもらって一人ぼっちで過ごしていた。

 

母親の実家は割と裕福な家のようだ。僕は子供の頃には家で牛を飼っていた。賢い牛で自分から、先に田んぼへノラリと歩いて行き鋤をつけられて、田んぼを梳いた。

 

後で知ることだが、ある程度大きくなると業者の人が買いに来て、伊賀肉になってお金持ちの腹の中に入ってしまうのだ。僕はとても悲しくて泣いた。また、小さい頃は犬を飼っていた。

 

学校から帰って犬の散歩に出かけるのが日課になって夜には寂しそうな声で鳴くから可哀想で一緒に布団の中で寝た。

 

ウチの家は非常に教育熱心な家庭で僕の従兄弟達は夏休みになると必ず父親に勉強を習いに来ていたが、僕が先に回答してしまうので父親はおまえは犬と遊んどれ、と叱られた。

 

今からもう70年以上も前に父親の兄弟はみな師範学校や帝大と呼ばれる大学に進学していたらしく、頭はそれなりに良かったのだろう。父親と二人で風呂に入るとモールス信号や英語の単語を教えてくれた。

 

風呂のガラスの曇りに、書いてくれるのだ。親父の背中には手術の後の傷後が刀で斬られたような痛々しい跡があった。

 

肺が片方なかったのだ。時にはいたずらが過ぎて庭の桜の木に縛り付けられたりしたこともあった。今なら虐待だろう。何しろ貧乏だから1964年の東京オリンピックもテレビがないから近くの金持ちの家で見せてもらう。

 

我が家にテレビがやって来たのはオリンピックの次の年だ。非常に高価なものだったらしく母親は月賦で買ったと言っていた。僕には2つ上に姉がいたが明るい声でいつもケラケラ笑う呑気な人だったが勉強は駄目なようだ。

 

飼っていた犬が家の隣の躁鬱病のオッサンに猫いらずを飲まされて死んでしまった。悪質な犯罪だ、それからウチの家では隣の話が茶の間から消えた。

 

中学生になると今度は十姉妹を飼うようになって餌を与えて可愛がっていたが躁鬱の家の反対側の家の猫に食われて死んだ。泣きまくりもう動物は飼わないと決めた。犬や鳥の命の重みをまだ僕には受け止めるだけの覚悟がなかったのだ。

 

しかし小学校の時に家の庭でうずくまっていたカラスを僕は苦労して治してやったら、カラスはとても賢い鳥で僕が指笛を吹くと何処からか飛んできて僕の肩に乗るのだ、友達はK君はカラスと話しがてきるの?と不思議がった。

 

夜には指笛を吹くと近くの森からクェッと鳴き返す。動物には人気があったようだ。半年程でそのカラスも飛んでこなくなって、もう死んだのか?それとも忘れてしまったのかこうしてたった25人の小学校に別れを告げた。

 

入学した中学校は全部で8クラスもある、中学時代は悪い奴らがたくさんいて授業中にシンナーを吸って今風に言えばラリっている奴や女子トイレでセックスしている奴らがいたが、僕は真面目に勉強に打ち込んだ。

 

なかには僕なんかよりずっと賢い奴もいたが、さっさと転校して行った。放課後は友人達とサッカーをして遊んでまた家に帰る。今夜は母親のカレーライスだ。必ず僕は2杯は食べた。母親の作ってくれたカレーライスは美味しい。

 

中学生の頃に父親初めて車を買った、トヨタのパブリカ、、の中古車だ。空冷2気筒水平対向エンジンポンコツでやたらガソリン臭い車で載せてもらうと全員が車酔いしたものだ。

 

これはダメだと言って違うニッサンはサニーに乗り換えた。その車で家族全員が近場をずいぶんドライブしだものだ。雨の日は助手席に座る僕が曇ったウィンドウグラスを布キレで吹くのが僕の仕事だ。

 

今のようにエアコンなんかあるわけがない、と言ってもお寺や神社が多くたまに生駒山の公園なんかにも連れていってくれた。後は祖母が家で僕達の帰りを待っている。祖母はどうしても車酔いが治らなかった。

 

ある日僕は中学の時初めて一人の女性を好きになり、これがいわゆる初恋というものだった。

 

親戚に時々お風呂を借りに行ってそこの僕より4歳下の女の子と一緒にお風呂に入っていたが、僕はその子が大好きだった。初恋はむしろそっちの方かもしれない。大人になるとびっくりするような美人になったがまだまだ先の話だ

 

僕と親父の間には約束事があり、それは他人に感謝することと相手の立場になってものごとを考えることだ。人と付き合う時には一番大事なことだと教えられた。

 

だからその初恋の相手の気持ちを考えたら僕なんかじゃ駄目だと諦めた。まだ女性の気持ちなんかさっぱりわからないような子供が恋愛なんて早過ぎるのだ。

 

勉強とサッカーに今は夢中でいればいい、中学校の3年間はそれで終わり、次は高校生になる。僕の進学した高校は町一番の進学高だからクラスにも必ず賢い奴が一人や二人はいた。

 

僕の友人はとても頭の良い奴でユーモアのセンスもあった。近鉄伊賀線の踏切の遮断機に隣でボーっとしていた奴の帽子を引っかけ遮断機が下りてくるまでその友人はゲラゲラ笑いっぱなしで僕も思わず笑いまくった。

 

そいつの実家はやはりお金持ちで見たこともない高価なステレオやクラシックレコードを沢山持っていた。鉄道模型が彼の趣味らしく、ちょっと羨ましく思ったものだ。僕の家には落とし玉を貯めたお金で買った潜水艦の作りかけのプラモデルが一つあるだけでステレオなんてとても買ってもらう余裕なんかあるわけがない。

 

僕よりもっと貧乏な奴もいて、そいつの実家には電気が来てなかったのだ。彼は蝋燭の灯りで勉強していたらしく、K、俺は絶対に国立の大学へ一発で合格するからなぁと頑張っていた。

 

時々僕の家までバイクに乗って一緒に勉強したものだ。彼の父親は岩を削って作業する行員だったが不慮の事故で両手を失ったらしく障害年金生活保護を受けていたはずだった。

 

彼も僕には一言の愚痴もこぼさないナイスガイだ。一度彼と二人でバイクに乗って一緒に京都まで行ったことがあったがそれが学校にバレても彼一人が謹慎処分を受けただけで僕はお咎めなしで済んだ。

 

口の固い奴なのた、友人を売ったりしない。こいつは信用に値する男だ、高校生の時は一番仲良くなった。高校生になったらサッカー熱は冷めて今度は卓球に打ち込んで、三重県のある大会に出場して実戦に出してもらえるようになって僕はいきなり優勝候補とされた伊勢の選手に勝ってしまった。

 

毎日猛練習を繰り返しハードにしたからだ。体力は百姓で鍛えてあるし、サッカーの練習も無駄ではなかったのだ。

 

不思議なものでそれまで卓球なんか全然興味のない女の子なんかがうちのクラブに入りたいと言ってくるようになって僕はなにかこう言葉にはできない興奮した気持ちになり、シェイクハンドの前陣速攻型にますます磨きをかけて練習に打ち込んだ。

 

そしてついに三重県で優勝してしまい、卓球の世界の有名人に、なってしまう。いよいよ次は全国大会だ、日本中からもの凄い選手が多数やって来て僕のチームもかなりの所までには名前を知られるようになって来た。

 

もう一人友人がいた。背が高くて女の子にモテた。そいつの彼女も可愛い子だった。H子さんと言う名前で本当は僕が好きだったらしくてあとになってその事実がわかる。その内僕は一人の女の子と恋に落ちた。

 

とても可愛い子で一緒に映画を観たり、喫茶店でお茶を飲んだりして、僕より2つ年下だった。3年生になるとみんなどこの大学へ行くのか?周りの人たちはみんな関西の方が良いと言う、暇な時はいつも帰ってこれるし、いつでも友人に、会えると、僕はもうこの排他的な土地が嫌でしょうがなかった。

 

東京へ行くと決めた。でも内は相変わらず貧乏だったし姉は京都のとある私立の女子大学へ進学していたから、両親はなるべく僕には余りお金の掛からない国立大学へ進学して欲しいのがよくわかった。

 

だから僕は一橋大学を受験することに決めた。バイクの友人は東京工業大学を受験するらしい。鉄道模型の友人は神戸大学を受けることになった。

 

もう卓球も卒業だ、少々悔いは残るが卓球でメシは食えない。深夜まで起きて勉強をしまくった、父親が仕事帰りに僕の部屋の灯りが点いていたら必ずホットドッグを買ってきてくれる。

 

そして僕に精出して頑張れと気合いを入れた。いよいよ受験する日が来た。僕は夜行列車で東京へ行き、そして試験会場で受験票を渡し教室に通された。頭が一瞬真っ白になってしまう。

 

僕は数字が苦手だ、英語や地理、歴史は得意な方だが、やがて試験は終わり、僕は実家へ帰ってきた。家族はみんな僕に気を使ってあまり試験のことは聞かないようにしてくれた。

 

やがて、試験の結果がわかる。僕は落ちた。あれだけ頑張ったのに、しょうがない、浪人生になるか?ところが滑り止めに軽い気持ちで受けておいた早稲田大学の文学部に合格していた。

 

二人を私立に行かせる余裕なんてないだろうと思っていたら親父は早稲田へ行けと言う。金の心配なんか子供はしなくても良いと、バイクの友人は東京工業大学へ見事に一発合格していた。鉄道模型の友人は神戸大学へ合格した。

 

こうして僕の高校の3年間は終わり、みんな次のステージへ踏み出した。付き合っていた彼女とは東京と田舎の間でしばらく文通をしていたがいつの間にか自然消滅してしまい、あっけなく終わりとなった。

 

東京の最初の1年は三重県出身の学生が入れる寮に住むことになった。賄いも付いているから両親はなるべく僕の食事のことを気にかけてくれたのだ。お金も安いし、大学の文学部にはミルクホールと呼ばれる学食もあった。

 

確かに日本中から賢い人がたくさんいた。大教室には馴染むことはできなかったがいつの間にか慣れてしまう。新しい友人もすぐにできた。寮で覚えさせられた麻雀で友人達と遊びまくった、2.3日の徹夜で麻雀をしたこともある。

 

少しのお金をかけて打つ方が面白い。後は実家からの仕送りなんてたかが知れていたから、もっぱらアルバイトの日々だ。できそうなバイトは大抵やったが中にはキツいのもあった。

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とある印刷所のバイトは一緒に作業していた奴が機械に、両手を挟まれてスパっと両手を切り落としてしまった。雑誌やらが、真っ赤になって血だらけになり救急車に乗せられて2度と見ることはなかった。

 

僕もそろそろ終わりにしよう、次のバイトは新宿からいわゆる東京の下町の方まで雑誌をバイクに積んでお客様の元へ届ける仕事だ。

 

重い本を何冊も積んで配送するのだが、中には暇な奥さんもいて彼女の性の相手をさせられたこともあった。一冊で一発?変な所だ、東京は。やがて早稲田にもロック喫茶店ができた。ほぼ毎日入り浸る。そこのママさんとは音楽の好みが似ていたのですぐに意気投合した

 

いろんなロックを聞かせてくれた。なかでもとびきりのイギリスのダイアーストレイツというバンドには痺れた。エレキをピックなしで弾くようなのはこれまで聞いた事がない。彼らは凄いバンドになるだろうと直感した。

 

学校が休みになると僕は田舎へ帰り実家の百姓の手伝いをした。母親も近所の建設会社の事務として働いていた。子供二人を私立の大学へ行かせるのは大変だったと思う。申し分けない。僕はロクに勉強していない、友人達と麻雀ばかりして遊びまくっている。反省して東京へ帰る。

 

友人の一人が可愛い女の子を連れて喫茶店に入って行くのを見て、羨ましいな、僕もそろそろ彼女が出来ればなあ。大教室で時々見かける女子が気になっていた。

 

彫りの深い顔立ちで、瞳の色は普通の人にはない特別なブラウンブルーとしか言えない、多分ロシアあたりのクォーターかもしれない、とびきりの美人だ。髪の毛は軽くウェーブのかかったセミロングだ。思い切って声をかけた。案外素直に応じてくれたのだ。

 

僕は舞い上がり、暇な時はいつもデートしていた。アルバイトの日々は相変わらずだったが彼女が出来るだけで張り合いも生まれる。彼女は青森県津軽出身だそうだ。太宰治の家の近くにあるらしい。映画を観て、軽く食事をしたり、幸せな時はいつまで続くのか?

 

ある夜のこと新宿の歌舞伎町を二人で歩いていると彼女は突然お酒が飲みたいというが僕はまだ子供の内はそんな店には行ったことがなかったので躊躇していたら一件のバーを見つけてさっさと入って行く。

 

僕も恐る恐る付いて店の中に入ると彼女はカウンターに座っていきなりジャックダニエルのバーボンのロックをオーダーして一気に飲んで、僕にも飲んでみれば?という。お酒は苦手な方だが、勧められたら引っこみがつかない。

 

同じものを僕も飲んだ。思ったより飲みやすい。お金ならアルバイトのおかげで少しなら大丈夫だ、危険な雰囲気の店てもなさそうだし、彼女も喜んでいる。結局バーボンのロックを4杯飲んで彼女は足元が怪しすぎる。

 

かなり酔っ払ってしまった様子だ。これはマズイ、僕はまだ大丈夫だ、彼女のアパートまで送っていかなきゃいけない。確か世田谷区の下高井戸の方だと、聞いたことがある。

 

タクシーを呼んで彼女を載せて高価そうなアパートに到着すると早速彼女は着ていた洋服を全て脱いで裸になった。シャワーても浴びたいのだろうと思う。

 

しばらくすると湯船にお湯を張る音が聞こえてくる。温まっているのだろうか?その時彼女が僕を呼んで一緒に入ろうと言う。僕はLEEのジーンズを脱いで怖々湯船に浸かると彼女は僕の身体を綺麗に洗ってくれた。

 

互いの身体を荒いっこした後いきなり彼女は僕の口に舌を入れてきた。こうなるともうベッドへ一直線、激しくも狂おしいセックスをして最後は思いっきり射精した。物凄い快感で全身が震える、脳味噌が溶けてしまいそうだ。

 

避妊なんか考えない、耳元で愛してると彼女は囁くと僕の身体を力づくで抱きしめた。彼女の目から一筋の涙が溢れたのを僕は恐らく死ぬまで忘れないだろう。真面目に結婚しようと思う。

 

ところがそんな幸せな生活は長くは持たない、半年くらいで彼女は僕の目の前から消えた。アパートは引っ越したようだし、学生課に確認したら、彼女は退学していた。まだ携帯もネットもない時代に彼女を探しようがなかった。

 

しょうがない、もう忘れよう、僕は荒れまくった。大学の友人達と飲めない酒を飲んでは吐いた。それからしばらくして僕は吉祥寺という当時はオシャレな街へ遊びに行ったら、確かにみんな洋服や髪型なんかもきちんと考えている。

 

昔の寮にいた友人と、一緒にロックを聴かせる喫茶店に入ってディランやニールヤングの曲を聴くと心がなんとなく沸き立つ感じがして心地よい。少しの罪悪感も今の自分にはちょうど良い。

 

たまには田舎にでも帰るか?子供の頃によく二人でお風呂に入った女の子はどうなっているかと思えば大変な美人になって腰が抜けそうになる。京都の短期大学へ通っているらしい。めったな口を聞くような雰囲気ではなくなっていた。

 

 近場にこんな可愛い子もいるんだ。そこの両親はこの子は僕の許嫁みたいな人だからねと言うが本人の気持ちが一番だろう?彼女は僕と結婚してもいいと言う。予想外の展開になり、まぁ、まだ二人はこれからだし、僕が大学を卒業してまともな会社に就職したらその時考えれば良いことだ、と言う結論になった。

 

東京へ帰ると僕は吉祥寺のグァラン堂と言うライブハウスに入り浸るようになってしまう。普段はあまり聞かないフォークをよくかけている。ときにはライブも、あり知る人ぞ知るミュージシャンがなかなかの歌を聴かせてくれる

 

アパートは引っ越しして高田馬場駅の近くに借りた。引っ越しを大学の友人に頼み引き受けてくれた。まあ、アパートと言っても昔は女郎屋だったみたいな部屋の作りになっていた。

 

家賃が安いのが魅力だった。四畳半で1万2千円は当時でもかなり安くしかも大学までたったの歩いて5分と近く、そのボロアパートでも早速友人ができて相変わらず麻雀の毎日だった。僕はグァラン堂で知り合った大分県出身のG藤君や宮崎県出身のH野君と3人でよくナンパをしたものだ。

 

駅の反対側にノロと言うライブハウスがあった。その店で北海道の帯広出身のちょっと僕好みの女の子と仲良くなると早速高田の馬場のアパートへ招待してセックスしたら、彼女はブァージンみたいだ。

 

しばらくは続くが話しが面白くない。ディランさえ知らないのだ。じきに別れた。ある日吉祥寺のグァラン堂で可愛い女の子と知り合いになった。彼女は福岡の博多出身で絵の専門学校に通っているらしい。

 

阿佐ヶ谷の彼女のアパートに僕を上げて早速僕をモデルに見立てて絵を描いていたが、かなりの腕前にちょっと感心した。また奇妙な同棲生活が始まった。ところが

彼女はとんでもない尻の軽い女だった。

 

僕の大学の友人と寝たみたいだ。ところがそいつは包茎でセックスがうまくできないと僕のアパートに転がり込んで来る。僕はあなたみたいな尻軽女は嫌いだとキッパリ断れば良かったのだが、その時父親との約束を思い出した。

 

相手の立場になって物事を考えろ。僕は彼女を許してしまった。しばらくすると田舎の婆さんが亡くなったと連絡があり、僕は田舎へ帰ったら、婆さんが僕が大学を留年したことがかなり堪えたみたいらしい。

 

大学にはほとんど行かずにバイトと女の子に夢中になり過ぎていたのだ。反省して高田馬場へ帰る。今後は意識を変えてちゃんと勉強しようと思う。

 

でも授業を受けてもさっぱりわからない、そんな5月のある日僕は酷い風邪を引いて熱を測ると38.7度もあった。こりゃいかん、市販の風邪薬を飲んで、慌てて布団に潜り込んで丸3日汗をかいたら、身体は少し楽になった気がする、もう大丈夫だと油断してしまった。

 

僕の悲劇の始まりだった。やたらに喉が渇いて東京にできたばかりのコンビニでコカコーラの大瓶2本を買って一気に飲んでも乾きは収まらない。

 

トイレの回数が増えてこれは只事ではなさそうだと大学の診療所に駆け込んだら、今すぐに大病院で詳しい検査を受けなさいと言われ東京女子医大検査を受けたらあなたは糖尿病だと言う。

 

ちょっと待ってくれ、僕は全然太ってないし、贅沢物も食べてない、何でそんな病気になるんだ?医師はあなたは最近風邪をひいたでしよう、あなたの体内にウイルスが入り込んで、すい臓の、組織を破壊したのです。

 

いわゆる自己免疫疾患と呼ばれる難病です。道を歩いていきなり地雷を踏みつけるような感じですよと、治るんですか?一生インスリンという注射をしないと即ケトアドシースになりすぐに亡くなりますよと脅された。

 

僕は一旦田舎へ帰って両親と話をしたら、親父はもうこっちへ帰って来いと、言うが母親は留年までしたのにもったいないと言う。僕も東京に未練があった。

 

これからは、病気持ちとして生きていくんだ、負けてたまるか!医師に聞けば僕なんかよりずっと若い子供たちでも自分で、注射してやっているよ。他に選択肢がなかった。その時にあの高校生の時に僕の友人の彼女のH子さんが見舞いに来てくれた。ファーストキスをしたのが彼女だった。

 

23歳で死ぬには早過ぎる。東京へ戻った僕はこれからは真面目に勉強してきちんとした生活を送って行こう、大学だけは、卒業しないと亡くなった婆さんに申し訳ない、でも朝一番のドイツ語だけは難しくたまたま高田馬場へ行くバスの中で古い友人と偶然会いドイツ語の得意な奴を紹介してもらい課題の論文の翻訳の手伝いを頼んで何とか単位を取れて卒業することはできたが、ズルしての、卒業だから全然嬉しくなかった。

 

次は就職だが、病気持ちを雇うようなありがたい会社なんかある訳がない、親父のコネで面接はしてくれるのだが、その注射は、気持ち良くなったりするのか?麻薬と感違いしているらしい。普通に生活するためですと説明するのだが理解してくれない、そんな会社はこちらから御断りだ、僕は田舎へ帰ることに決めた。

 

同棲していた女も付いて来ると言う。職安で、塾の先生を募集していた。面接と、簡単な試験を受けたら雇ってくれるらしい。

 

車で、あちこちの教室を周り子供たちに勉強を教える、一緒に先生をしていた男がK君、この会社はインチキだと言う、親を騙して非常に高価な教材をローンで、買わせ僕達は単なる子供たちの遊び相手だと言うのだ、その男と丸10カ月で、辞めた。詐欺紛いの会社なんかで犯罪の加担してはダメだ。

 

次に親父が紹介してくれた会社は社長が僕と同じように病気持ちの、人らしく理解があった。仕事自体は単純なコンピュータを使ってやる比較的楽な仕事だから、僕にもすんなりできる仕事だった。

 

女は本屋で仕事を見つけて働いている。貯金も少しずつだができるようになって親父がおまえもそろそろ身を固め孫の顔でも見せてくれとどこまで本気なのか?まあ、結婚することにした。

 

いくら頑張っても子供ができない、病院で検査を受けたら僕は無精子症だと言う。僕も自分の遺伝子を残すことができないショックはあったが、彼女はもっと辛かっただろう。女性が子供を産めないのは男よりずっとキツイ筈だ。

 

彼女はそれから変わってしまった。他に男ができて妊娠したからと僕を捨てた。28歳で結婚して36歳で離婚した。両親にはどう説明すればいいのか?まあ、病気なら仕方ない。

 

ある日僕は職場で初めて低血糖の発作を起こし救急車で病院に運ばれた。ブドウ糖の点滴を打たれたらすぐに元に戻るが悪い噂はあっと言う間に広がる。あの人なんか危ない病気持ちらしいわよ。あぁ怖い。差別と偏見の嵐が吹き荒れる。段々、会社に居づらくなってしまい僕は辞めることにした。

 

アパートで休みの日は何処で聞いてきたのか知らないが訳のわからない宗教団体がやって来てはあなたの病は信心が足りないからだと抜かすS学会の人だ。僕はあの悪魔のような組織を知っている。

 

貧困や相手の弱みにつけこんで財産を全て毟り取り、自殺に追い込むオ○ムより恐ろしい。僕の知り合いの女の子がハマり自殺した。アホんだらぁ。僕はゾロアスター教だと言って追い返す。

 

そんなある日のこといきなりドアのピンポンが鳴った。今度はなんだ?とドアを開けるとそこには可愛い女の子が立っていた。

 

何処か懐かしさを感じる雰囲気の子だ。いきなり僕を抱きしめた。パパさん会いたかったと言う。ちょっと待ってくれ、僕には子種がない。だからあなたのお父さんにはなれない。けれど彼女は僕をパパさんと呼ぶ。また奇妙な同棲が始まる。

 

二人で京都まで競馬を観に行った事もある。車はシトロエン2CVだ。親父の買ったポンコツのパプリカと同じ空冷水平対向エンジンだが、実に快調に走ってくれた。彼女は何といきなり万馬券を的中した。彼女には僕が子供の頃に治してやったカラスのように馬の気持ちが分かるのかもしれない。50万近く儲けた。

 

それから隣町にあるなかなかの音楽を聞かせるバーへ行って彼女はテキーラをガンガン飲んで一躍人気者になった。僕に彼女を紹介して欲しいと何人もの野郎どもが迫ってくるが僕は全て断って、彼女とはちょっと訳ありだからと言って。僕は彼女を連れて実家に帰ることにした。

 

親父も母親も大喜びして大歓迎してくれた。親父が何年ぶりに僕を褒めた。なんだ、結局血を絶やすことがイヤだけだったのだ。何かが僕の中で壊れた。

 

ある日のこと、彼女は高熱を出して寝込んでしまった。僕のかかりつけの医者に聞いたら彼女も1型糖尿病だという。この病気は感染するのか?そんな筈はない。病室にはA関F子と書いてあった。F子と言う名前のFの部分は僕の名前から一字をとってくれたらしい。

 

A関?僕が大学の時に付きあった津軽出身の女の子だ。本当に僕の子供だ。遺伝子を残すことに成功していたのだ。まだ僕の精子が恐らく元気だったのだろう。奇跡以外の何者でもない。ところが彼女の病の進行は早くあっという間に進行していたのだ。

若いせいもあったのかもしれない。絞り出すような声でパパさんありがとうと言ってて息を引き取ってしまった。

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津軽へ行こうと決めた。会社なんかどうでもいい。退職金でF子の遺骨を抱いて列車に飛び乗って津軽へやって来て、K木町のA関家を訪ねた。比較的大きな材木商をされているらしい。

彼女のお兄さんに当たる人が僕の話を聞いてくれた。Y子は五年前に大腸癌で亡くなった。娘を連れて三重県まで行った事があると、迷惑になったらいけないから会わずに帰ってきた。

涙がポロポロ勝手に流れる。昔彼女が流した涙はこう言うことだったのか?心底僕のことを愛してくれていたのだ。学生の頃にどうしてもっと真剣に彼女を探さなかった自分を今更責めた。

Y子はクリスチャンだから、F子も簡単なミサをしようと言ってくれた。僕とY子さんの愛の結晶です。とF子の遺骨の渡す。実家に帰って何もできない日々を送っていたら、突然親父が倒れた。

入院して母親と二人で看病をしたが、結局肺が片方しかないのが祟ったのだろう。最後は多臓器不全で78歳で亡くなった。親父の軽自動車で走っている最中に低血糖の発作を起こし田んぼに突っ込んだこともあった。

その田んぼは昔織田信長天正伊賀の乱で伊賀者を皆殺しにした戦の跡地でいつ掘っても大量の人骨が出てくる所だ。エラい場所に落ちたものだがカスリキズひとつなかった。周りの人たちはみんなお父さんが守ってくれたんだよと言う。かもしれない。

僕の実家の近所には変わった苗字が多い、C早さんとか変わったのでK飛という苗字もあった。みんな伊賀の乱以後朝鮮や中国から無理矢理連れてこられて強制労働させられた人に違いない。k村は金とも読める。僕のルーツも怪しげだ。

その時人の痛みを自分の痛みとして初めて受け止めることができるようになった気がする。病を通じて。

来月から人口透析が始まる。また新しいステージにアップするのだ。この先自分でもわからない。壊れていく身体、精神状態。タバコ一つ辞めることのできない意思の弱さ。

僕は親父と、約束した人に感謝して生きろ、相手の立場に立って物事を考えろという約束は守れたか?自信がない。理解できるようになっていたかもしれないが、失うものが大き過ぎた。

冬の津軽は伊賀なんか比べものにならないくらい遙かに寒い。雪の中にポトリと落ちた真っ赤な花の名前を僕は知らない。奇跡のような愛の花。

1型糖尿病で苦しむ全ての患者に捧げる。